猫の手借りて、オーストラリア大解剖。

オーストラリアで体験したアッと驚く事、信じられない事実をシェアします!

自分と他人を混同する日本人【期待と信じる事】

 

父が見ているTVからよく分からないフレーズが聞こえてきた。

 

「彼はやってくれると信じているので、期待してます」

 

私はそんなにスポーツ観戦はしないけれど、この時ばかりは画面に目をやった。

今話題の、大谷翔平が映っていた。

 

昔だったらこういう表現が聞こえてきても今ほどには違和感を感じなかったのかもしれないとは思うけれど、オーストラリアに滞在して帰国してから日本人の大多数が無意識に持っている”人に期待する”という感情について考えてしまう事が増えたのでこんなちょっとした解説者が発した発言にもひっかかる所があったのかなと思う。

 

どうも、日本人は他人に期待しすぎていると思う。

 

ところで”期待”とはどんな意味なんだろうか?

 

文字どうり、期を待つという意味で未来に何らかの事を心待ちにしているという風に取る事が出来る。

 

だから他人に期待するという事はその人がどんな風に振る舞ってほしいのか、その期待を抱く人間の未来に対する理想像が中心にある。

 

この場合は解説者自身が彼にこれからの好プレーを望んでいる表現と思う。

 

要は、他人に期待すること自体が自分の中に相手の理想の姿を思い描く事に他ならない。

 

いやいやそれっていい事でしょ?

と思う人もいるかもしれないが、本当にそうだろうか?

 

私はオーストラリアに長年滞在してきて、私が日本で生きていく中で息が詰まるように感じていた事の原因はこのあちこちに溢れる”期待”というものも原因の一つだったと気づいた。

 

そもそも、他人の理想像を決めて期待してもその人本人の理想と違う場合も意外と多いし、なんならその理想像が正解かどうかさえ分からない事の方が世の中うんと多いと思うからだ。

 

オーストラリアという国で生活する人は、本当に沢山のバックグラウンドを持っていて目の前にいる人間が何を考えているかどんな人間か分かろうとする事は本当に難しい。他人について予想していたって、その予測は外れる事の方が本当に多く期待などしていては裏切られる事が殆どと思っていい。と、いうか寧ろそれが当たり前と思っている事こそが最高で楽に生きられると思ってきた。

 

人はそれぞれみんな違うし分からないから、期待を寄せる事がどれだけ無意味か・・

 

自分基準で考えそれを他人に当てはめる、そして自分自身でさえ確定できないような他人の未来について待っている。それだけなら、まだいいのかもしれない、、だけど裏切られることが寧ろ当たり前で、みんなそれぞれ違うからもし予測と違ってもそれを何故受け入れられない人がこんなにも多いのか。。。

 

寧ろ、裏切られるのは当たり前でそれさえ面白いと思わなければ嘘なのに、、

違いこそ個性で、人間そのものの面白さでもあるのに。。

 

目の前にいる人間の違いをまずは受け入れる、本当であればそれが人間関係のスタートであるのにそれが欠如している人間が多すぎる。

 

知らないうちに他人の人生に介入し、口出ししたり怒ったり傷ついたりする人が何故日本という国はこんなにも多いのか、、他人と自分を混同し距離感が掴めないし、同調しないと気が済まない。

 

群れていないと落ち着かない幼稚な人間や精神面で不安定な人間が多いのは何故なんだろうか?

そもそも自分と他人は違うのに何故、同調できるのだろう?

 

その基準はなんなのだろうか??

 

意見が違えばそれを話し合ってお互いに取り入れて高めあったり、妥協点を見つけたりそうやって歩み寄っていく事で良いポイントを見つけ合っていく事が必要なのに、、

 

もっと日本人は物事に寛容になって、互いに許し合う姿勢を身につけるべきだと思う。

 

自分軸で考えても相手の考えが同じという事はありえないから、期待の押し付けをしてはいけないという事を忘れている人が多い事。ストレス社会を自分達で作ってしまっている。

 

正しい対話もできなければ、人間性が高まりパフォーマンスが上がる社会さえできないと思ってしまう。所詮社会だって、個人の集まりなのにその方法さえ分かっていない大人が結構多い。

 

オーストラリア人は日本人よりは、みんなそれぞれ違う事を知っているから意見が違ってもそれが当たり前でそれだけで攻撃されたと勘違いして怒ってくる人などいない。寧ろ、意見がない方が異様に思われるから全く日本とは逆の環境だ。もし他人が予想と違う動きをする事があっても日本人ほど驚いたりイラついたり怒ったりはせず、笑い飛ばしたり直ぐに忘れる人間の方が多い。

 

他人と自分は違うと認識する事はすごく生きていく上で楽になる良い事とオーストラリアで私は学んだ。

 

それに人に期待をしなければ、自分軸をとても大事にするようにもなる。

 

自分が気分良くいられるには、どうすればよいか?

 

他人に期待しなければ、自分が何をしなければいけないかを自然と考えるようになるから、他力本願でなくなり精神的にも成長する事ができる。

 

だから、日本人が他人におんぶにだっこで何でも他人任せになったり依存したりしているのが凄く目についてしまう。そして、何か起こると自分よりも周りのせいにするから何度も同じ失敗を繰り返し全く成長しない人間も多い。自分の過去の行動を省みなく、学習しないから大人なのにずっと子供のままの人も多すぎると思う。

 

「彼はやってくれると信じているので、期待してます」

 

の短いフレーズをみても、日本人の典型的な例を良く表していて信じる事と期待する事の意味を混同している事がすごく分かる。

 

”信じる”とは、今あるその対象そのものの価値を受け入れる事だから、当然予測していない事があっても受け入れる自分への決意も入っている言葉。

 

だから、そもそも

 

「彼はやってくれると信じているので、期待してます」

 

訳すと、

 

「彼自身の今ある存在そのものの価値を認め受け入れているから、私が抱いている彼の未来の結果に対して心待ちにしています。」

 

と訳の分からないフレーズになってしまう。

 

なぜ彼の今の存在そのものの価値を受け入れているのに、自分の心待ちにしている結果を待っているのだろうか???

 

どんなプレーをしても、その人の価値を受け入れないのか?

 

自分が待っている未来の願望をその人が果たす事自体がその人の価値でないはずなのに??

 

「信じる」「期待する」を混同しているこんな些細な事からでも、他人と自分の距離感が無意識下に掴めていない事が良く分かる。

 

本当に、信じているんだったら

期待するのではなく、応援すべきだろう。。

 

本当に良いプレーができた!!というのは、その人個人の問題なんだから他人が分かる話でないし、なんか期待ばかりされる人は大変だなと感じてしまう。

 

日本人の特徴として、自分でやりたい事や本当はやりたくない事があっても”誰かの期待”に応えようとして無理やりにその行動を行う人が多いと感じる。これはどんな分野でも言えるけどスポーツ選手も例外ではない。他者の期待に応えるためのプレーをして成績が落ちる選手も意外と多いと思ってしまう。

 

自分と他人は違うんだから、簡単に他人に期待したり期待を投げかけたりしない。そうすれば、他者にプレッシャーをかける事もなくなるし自分と違うはずの他人と向き合う事も面白くなり気楽になる。

 

自分と他人を混同して期待をせずに、まずは他人を受け入れる事から始めるのが大事と思ってます。

 

 

   

 

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そのマスク意味ないです!

 

私、オーストラリアに住んでいる間に咳をしていたりくしゃみをしているにも関わらずマスクをしていない人間がいる事がとても嫌でこのブログにも書いた事があります。

 

それは何故かって、オージーは基本的に厳しい規則が言い渡されない限りマスクをしないからです。

 

だから日本に帰国したら、大部分の人はマスクをする事に抵抗がないからもっと安心に過ごせるかなあと思っていました。

 

だけどそれは大間違いで寧ろ、マスクをしている事だけで安全と思ったり何も考えずにただ習慣だから着用しているだけの人が多いように見え大変怖いと感じます。

 

それに、ただマスクをするという同調圧力だけで着用する人間の多い事。。

 

正直ビックリしているし、寧ろ意味がないのに人に着用を強制するような発言をする人間や着用する事態が害になるのにそれを気づきさえせず、、言ってしまえば感染を拡大する手助けをしているのではと感じる人間さえ多くちょっと問題に感じています。

 

そのマスク意味ないです!

 

と感じる場面がとても多いんです。

 

寧ろ害だなと感じてしまう時もあります。

 

マスクをただ着けているだけの人間が多いのも、メディアの問題もあるのかもしれません。

 

オーストラリアに暮らしている間にはコロナウイルスの感染者数が発表されると番組などで、マスクはどんな場合に効果があるのかや正しい着脱の仕方を専門家が詳しく説明している場面を見る機会が多かったです。

 

ただ日本に帰って来てから、ニュースを見てもオーストラリアほど詳しくマスクについて説明しているのを見たことは一度もありません。

 

最もよく見聞きするのは

 

”感染防止のために、マスクを着用してください”

 

というフレーズ。

 

どんな場面に効果があるのか、どのように着用すれば効果があるのかの部分が完全に抜け落ちてしまっています。

 

だからここでマスクが意味をなさない場合を記載しておきたいです。

 

マスクが意味ない場合

 

1.全く密でなく、周囲に人がいない場合

 ーマスクは、くしゃみや咳、会話などの際に飛び散る飛沫の防止効果に限定される

 

2.正しい着用方法をしていない場合

 ー寧ろ、ウイルス感染が蔓延する手助けをしている可能性さえある。

 

本当に沢山の人が思考停止で、1と2の事を考えずに着用しているだけで流石にヤバいなあと思います。

 

因みにマスクってあまり長時間していると自分が吐き出したものが内側に付着するのでそれをまた吸い込んで細菌を増殖させる危険性や、もしウイルスを自らが持っていた場合そのウイルスをまた吸い込み喉や鼻の粘膜に付着させたり、子供でまだ肺機能が十分でない場合はそれに対する脅威に勝てずに心肺停止する危険性だってあるんです。(実際に死亡しているケースだってあります)

 

マスクにウイルス防止効果は一定以上あるものの、リスクもある事を認識しないといけません。

 

1の全く密でない場面でマスク着用している人もしょっちゅう見かけます。

屋外で周りに誰もいない場所や何メートルも離れている状態で着用する意味は全くありません。日本は今夏なので、熱中症の危険の方が寧ろ高いです。

2の着用方法についてもかなり気になります。

特に飲食店でマスクを着用する意味は??私にはさっぱり分かりません。

何故こんなバカバカしいルールを設ける店があるのか私には意味不明です。

そもそもマスクを着けたり外したりすること自体、かなり不潔という認識を待たなければいけないからです。

 

マスクを外したらそのマスクは使いまわす事をせず、新しいマスクを着用。

外した後は、手指にウイルスや細菌が付着するために必ず手洗いやアルコール消毒を行わなければいけないとオーストラリアの保健省は指導しています。

 

だから飲食店で、マスクを外したら必ずその後に手を綺麗にして周囲を触らないそれが重要なんです。外し方も表面を全く触らないようにし、紐の部分のみを持つことが重要です。

 

そう考えると、長時間着用しっぱなしのマスクを何も考えずに表面を触りながら外しそのまま食事をしてあちこちペタペタ触るなんてことをしていては自分もウイルスに感染するリスクを上げているし、周りにもウイルスをまき散らしているのと同等なんです。

 

そういう訳が分からない行動を取っている人間がほとんどで正直ビックリ。。そして、飲食後平気で長時間つけっぱなしだったマスクをそのまま着けるという行為をしている人が殆どでなんかマスクをしていない方がマシなんじゃないか??と思える人さえいます。

 

オーストラリアでクラスターが起きた時にマスク着用が義務付けられた時、長時間して内部が湿ったりしたマスクは取り換えるようにとの指示も流れていました。目安は確か4時間くらいだったはずです。。。

 

それだけマスクしている事自体にもリスクがあるんです!

マスクは100%いい防具ではないんです。

 

それに驚くのが、マスクをしていればウイルスを全て遮断できると思っている人間の多い事。そういう人間は密な場所でも平気で間隔を空けず近づいてくる人さえいる。

 

マスクしているだけで完璧と思っていて危機感が全くない行動なんです。

 

私の身内にもこういう人間がいたのですが、粒子の細かい物はマスクを通過するという科学的な理屈さえ分かっていない。世界中で空気感染や細かいエアロゾルでの感染が確認されている以上は、科学的事実なんです。それさえ認識していない、意識が低いとしか思えない状況なんです。

 

マスクは万能でないから、衛生管理や着用方法に気を付ける。外出した後には、ウイルスを吸引したと考えるくらいの危機感を持って、免疫力の増強に努める事が大事だと思います。

 

ウイルス全てが唾と一緒にしか排出されていないと思い込んでいる人さえいる。

 

酷い人だと、説明するとこちらがおかしいと言って怒ってきたりキレてくる人さえいる。

 

もうこうなってくると、カルトのような宗教と同じです・・・。

 

危機感なしのマスク教が、感染拡大に協力している場合もあるのではと思っています。

 

長時間のマスク着用は酸欠状態になるから、知能が低下すると警鐘を鳴らしている医療関係者も存在します。

 

IQが落ちてる可能性さえあるんだろうか。。。

 

そのマスクに意味があるのかと考えて欲しい。

マスクが意味ない場面もあるんです。

使用方法や使用している時の状況こそ重要と思えば、マスクへの向き合い方も変わります!!

 

 

   

 

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日本で感じた差別。

 

最近は帰国後の自宅隔離期間が終わったために、日本で生活するために必要な各種手続きをするための外出をたまにしています。

 

その出掛けた場所で色々と差別について考えてしまった事が何度もあり、長期海外滞在した人間としてどうしても書いて残しておきたいと思いました。

 

私は西オーストラリア州パースに9年以上滞在してきた間、特に自分と違う人種の人間から”アジア人”という理由だけで明らかに他の人間と異なった扱いを受けた事があります。

 

まあ分かりやすくいえば、

 

”差別”

 

です。

 

これは私の場合に限ってですが、殆どのケースがこういう状況は私に接してくる人間が自分と違う人種である場合と周りが自分と異なる人種で自分だけで異なっているという場合で起きました。

 

でもそれは単に私がオーストラリアや現地の人達と同じように馴染もうとした過程で起こった事がこういう場合だったことが多いだけなんです。

 

周りに”日本人”が少なかったことも影響しています。

 

ただ、日本人と話した時にいろいろ違和感を感じた事もあるのでそれを差別と感じる人は差別と感じるのかもしれません。

 

わたしは、イジメと思ってましたが...

(また、こういう事も書こうかな。気が向いたら、、)

 

何が言いたいのかというと差別ってそんなに単純な事ではないのです。

これはおそらく、長期海外滞在した人間しか分からない事と思います。

 

オーストラリアは日本とは違って多民族国家です。

 

本当に色々な考えを持った人が共存し、誰一人として同じような人がいないと実感します。それで意外と似たような種類の人が固まっている事もあるんです。感覚的にそれは分かって言葉ではちょっと説明は難しいのですが、、そして差別的な雰囲気になるパターンも数多く見てきました...。

 

そこで分かってきたことは”差別化”する事は何も異人種間だけで起きる事ではないという事。

 

前にこのブログに書いたのですが、別に特定の人種間だけでのみ差別が起こる訳ではないからです。

 

でも基本的にオーストラリアという国は、多種多様な人間が共存しているためになんとかコミュニケーションをとって他人を理解しようという意欲がある人が大多数に感じてきました。

 

それは

 

”みんな違うんだよ”

 

という子供の頃からの教育が大きいのかな?と思ってます。

 

みんな違うから自分以外の人間は基本的に理解できないという考え方が根本にあるためで、そもそも対話しなければバックグラウンドが自分と全く異なっている人間を分かるはずもなく信用するきっかけさえもできないと考えている人が多いです。

 

だから自分を知って欲しいと思えば情報開示するし、相手がどんな人間か知りたければ質問してきて意見を知りたいと思い尋ねてくる人間が多いです。

 

そして自分の意見を上手く説明できない人は何を考えているか分からないから基本的に信用度が下がり、存在価値が低くなります。

 

だから非常にクリアーなコミュニケーションで慣れてからは私には凄く楽でした。

 

ああ、こういう事なんだ

 

ってスッと胸のつかえが取れた感じがしました。

 

だから対話もできない人間、しようともしなく自分と異なるものを排除しようとする人間(差別主義者)は基本的に教養があまりない”人間力”が備わっていない人間と私は考えていました。

 

だから、”アジア人”というだけで扱いを変えたり酷い暴言を吐く人間を私は

 

あぁ、こんなところに理性のない本能剝き出しの動物がいるんだな。

 

くらいに考えてそんなにも気分を悪くしたり怒りを感じたりする事もありませんでした。

 

そうでもしないと、海外暮らしなんて出来ません。

 

人間も動物の一種で自分を優位に立たせたくなると攻撃したくなる本能のようなものを持ち合わせているはずで、その気持ちをコントロールできない人が言葉や態度で表すと思ってきましたから、、

 

まあ、言い返したり対応を考えて悪い立場にならないようにだけは気をつけてはきたんですけどね...

 

そのおかげで打たれ強くなり、どんな人とでも会話できるようになっていい経験ができたなって思っています!!

 

だから、”差別”を人種間で捉えたり、そういう意識がある人を見るとかなり驚くんです。

 

例えば、誰かが”日本人の特徴”や”悪い所”を言っただけで人種差別になるのだろうか?という点。

 

本当に人の意見を受け入れる心のゆとりがあったり、仲が良くて心理的バリアがなければ、見た目の特徴や自分の悪い部分を言われたってそれは差別と感じないわけで、それを差別と感じること自体知らず知らずのうちに自分と相手を順位付けしているんではないかと、、

 

無意識下で、自分と他者を比べて自分の価値を測っていませんか?

 

という事なんです。

 

 

文脈や背景を読む能力がないと、人種の特徴や悪い所を言っただけで怒り出す人がいる事も単純に理解できないのです。なぜなら、どの人種でも特徴や悪い所があるのは当たり前ですし、すべての人間は万能でない動物でなぜ優劣をつけたがるのかも意味不明なんです今の私には、、

 

そもそも、違いを受け入れずしらずしらずの内に評価を下している状態が、

 

”差別”なんです。

 

そしてそれによって無意識下で対応を変える事そのものが、、

 

私は海外経験するうちに、多くの日本人が抱える特有の悪い部分もかなり理解できて、自分自身もかなり人との向き合い方が変わったし、私が抱えていた周りと馴染めなかった部分である”同調圧力の強さ”を理解しました。

 

人と違っていると、”差別”してくる人がなんと多い事か。

 

多様性を認めない同調を強要する思想が”差別”を生んでいるとひしひしと感じています。

 

たまたま、

 

人種、性別、年齢、所属、属性

 

を評価し上下関係を決めたがる人間がいると”差別”として表れやすくなるだけだと思っています。

 

そもそも全ての人間が不完全な動物だから、みんな違ってみんな良いはず。

それ自体が個性や魅力になるはずと考えればそもそも”差別”の話題なんて出て来ないはずなんです。

 

人と比較する事で、自分を測ろうとする人間が多い日本という国はオーストラリアと比べて非常に差別が細分化されていると感じています。気づかないうちに何気なく差別している人が本当に多く、”差別”を大きな声で言う人間が差別している状態も非常に多く気になります。

 

誰一人として同じ人間はいないし、感じ方も人それぞれ、考え方だって違うはずなのに謎の決められた枠組みから外れると変な目で見る人々、こういう意識が差別に繋がるんじゃないですかと言いたい。

 

日本という国は、物理的には恵まれていても本当に息が詰まる感じで精神的に暮らしにくい国と思います。

 

私が区役所で各種手続きをする時、前住んでいた場所がオーストラリアと書いてあるだけで、なんだか異星人を見るような変な目で見る人が多い事。日本で生まれた日本人なのに異様な物を見るような目つきで見られても正直言って意味不明だし、頭おかしいのかと思います。

 

長期離れていたので、知らない事が多く説明を求めても機械のように事務的な回答しか出て来ない。分かりやすく説明するような言葉さえできない人の多い事...オーストラリアと比較して窓口の対話力が低すぎてビックリしました。

 

それで見てしまったんです。

外国から来た人にまるで、小学校低学年や幼稚園児に語り掛けるような口調で話しているのを、、

 

「これ、大丈夫?分かるかな?」

「いい?ほらほらここ説明あるでしょ!いい?」

 

敬語どころか、見下しているような言葉遣いと態度。

 

その応対されていた方はとても綺麗な敬語で話しているのにもかかわらず、、

 

見ているこっちが恥ずかしかったです。

 

それで私には宇宙船から降り立った異星人を見るように避けているような態度やおどおどした言葉遣い。。。

 

そして、一様に揃っているような個性のない群れのような集団には機械的に丁寧な言葉遣いとスマートな対応で応対する。

 

ああ、差別ってこういう事なんだなと思いました。

 

本当に差別していなかったら異なるものを意識さえしないんですよ!

 

って事です。

 

 

過去の記事もどうぞよろしくお願い致します!

↓        ↓

 

 

 同じ人種間でも差別ってあるんだよという話。

↓                 ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

 多様性を忘れたやりチンが、日本人と呼びながら差別化?

↓                   ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

オーストラリアにいる差別する動物たちの話。

↓                 ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

語彙力なしのバカオージー!!!

あれっ!?この話今日の日本人の話とかぶる?

↓               ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

 

 

   

 

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個人だと急に謝罪しない人々

 

少し前の記事で、日本に帰って来て違和感があった事に謝罪をし過ぎる人が多いという事を書いた。

 

だけど気づいてしまったんです。

 

日本人が礼儀正しく ”すみません”という言葉を意識して使うのは集団に属している、所謂社会活動をしている時に限られているのかもしれないって、、

 

 

先日、お店に出掛けた時に私が棚を見ていると店員さんが私の目の前を通る時に、

 

 

「すみません。前通ります。」

「ごめんなさーい。申し訳ございませーん。」

 

 

と言った。

 

 

ペコペコ頭を下げながら、姿勢を低くした状態で、、

 

私はその言葉を聞いた時

 

 

あぁ、まただ、

別に一言「失礼します」でいいのに、、

 

そんな悪い事してないし、

前を通る事一言断るだけで充分なのにな

 

 

と思いました。

 

罪を犯したわけでもないのに、”謝罪”するのは異常だしただ単に少し間を空けてもらう事を”謝る”だけで良いんですから、、

 

そういえば、オーストラリアでもスペースが狭い場合に人の前や横を通る必要がある時には、みんな互いに

 

”Excuse me."

失礼します

 

と声を掛け合う習慣がありました。

 

こうやって声を掛けない人はとても無礼と感じるのが普通で、狭い所で声も掛けずにその場を通り過ぎて少し危なっかしいなと思ったりすると、その無礼さを口に出して文句言う人も見た事も数知れず...

 

そのくらい、人と狭い場所ですれ違う時は

この、失礼しますという表現 Excuse me. と声を掛ける事がマナーとしてとても重要だったのです。

 

それにExcuse me. と言うと、みんな笑顔でサッと道を空けてくれます。

 

そしてその後、こちらも笑顔でアイコンタクトをし、

 

ありがとう(Thank you!)

 

とお礼をする。

 

すると、明るい声で

 

No worries!

気にしないで!

 

というフレーズが返ってきます。

 

だから私は、オーストラリアに滞在している間。

人に前を空けてもらう時や人に前を空けてあげる時は、いつも

 

Excuse me.

失礼します

 

Thank you!

ありがとう!

 

No worries!

気にしないで!

 

の3フレーズの言葉を掛け合っていました。

 

だから、お互いにこんな些細な事でも気分よくいられました。

 

話を戻すと、店員さんが

 

「すみません。前通ります。」

「ごめんなさーい。申し訳ございませーん。」

 

と私に言った時、

 

私は咄嗟に

 

「いえいえ、大丈夫ですよ。そんなに謝らなくても。。」

 

と言いました。

 

 

だって違和感が半端なかったし、、

別に何かヤバい事をやらかしたわけでないんですから、、

 

そうしたら、その店員さんはなぜかニヤニヤしながら私の顔を見て何も言わずに、なんか宇宙人でも見るような眼で見て、

スタスタっと何も言わずに私の前を通り過ぎたんです!

 

 

えっ!?

 

と思いました。

 

凄く違和感を感じて直ぐには気づきませんでした。

 

何で、あんなに謝罪してるのに私が何か言うと変な目で見るんだろうか?

 

その後、母にその事を尋ねてみたら

 

「日本人はそんなに声を掛け合わないよ。あなたが何か言ったからビックリしたんじゃない。。」

 

との答え。

 

はぁ!?はぁー??

はいっ!?!?

 

そういうもんだったっけなあ、、日本って

 

これからは宇宙人に見られないためにも、黙っていなきゃなあと思いましたw

 

おそらく、9年以上も

 

Excuse me.

失礼します

 

Thank you!

ありがとう!

 

No worries!

気にしないで!

 

のフレーズを交し合っていたから、私の脳の回路がそうなったのでしょうか?

だけどこれ凄い気分が良いし互いに楽なコミュニケーション方式だったのにもうできないのかな?と思うと何だか寂しくもなって来ます。

 

 

宇宙人になった私が少しだけ日本で日本人らしく振る舞うための習慣を思い出しました。

 

 

そうかあー。そうだった!!そういえばそうだよね!!!

 

日本の人は謝るだけで良い所(罪を犯していない場所)でも、やけに謝罪するしペコペコお辞儀をする。

 

そうされても、違和感を感じられないように黙って少しスペースを空ければよい!!!

 

よし!!できる!!

 

宇宙人とバレない様に空気を読まねばならぬ!!!

 

言い聞かせました。

 

そして、帰宅時に駐車場へ向かいました。

両親が食料品を詰めるから、私にカートを見ていて欲しいと言いました。

カートを持って車の斜め後ろにいた私。

 

すると横の車の人も帰宅するのか戻って来ました。

とても狭いスペースです。

私の前にその彼が近づいて来ました。。

 

私はシミュレーションしました。。

違和感ないように、、

 

だけど予想もしない事が起こったんです!!

 

あれっ!?

 

何とその彼、何も言わずに狭いスペースを体を斜めにしてカートに擦りそうになりながら通って行こうとしたのです!!!

 

はっ!?謝罪はなしかー!!

えーーーーっ!?

お前危ないだろ!!

一言、声かけろや!!!

ぼけ!!!

 

と思わず言いそうになってしまいましたが、グッと耐えました。

 

と言うか、危うく言いそうでしたw

 

(英語だったらこう言ってる可能性ありで、長年の習慣ですね...というか声を掛けずに通る人なんて遭遇した事ないのですが、、)

 

普通に危なかったので、私はカートを少しよけましたが

 

それでも無言です。。

 

謝罪もお礼もなしか!!!

無礼だな!!

おい!!!

 

と感じたのは言うまでもありません。

 

 

そこで気づきました、

 

日本人ってもしかして個人だと急に謝罪しない人がいるのかな?

 

って...

 

社会活動中(仕事中)だから謝罪してるのか??って

 

なんだか不思議でした。。

 

この人だけがそうだったら、

 

この人が無礼で特別なんだなとも思えるけれど、

 

他にも何人もぶつかりそうなのに、何も言わず通り過ぎたりする人がいたり、すれ違いざまに狭いスペースを何も言わずに体を横向きにして通っていく人の多い事。。。危ないよねって話です。。

 

 

ああ、個人だと急に謝罪しない人々が結構いるんだな

 

と感じました。

 

まあ謝罪する必要なく、謝るだけで良いんですが、、

それさえできない無礼者が結構いて驚きました。

 

こんな人間は余程変な人でない限り、オーストラリアにはいなかったし、もしいたら怒られる場合だってあるからです。。

 

かと思えば、その一方では人がいて通れないとずっと声を掛けられなくて、何も言わずにじーっとそこから人がどくまで耐え忍んでいる人もいる事が分かりました。

 

ありえない無礼者と、異常に遠慮深い人が共存していて生き辛い感じだなあって思ってしまいました。

 

人の手を煩わせてるなと思ったら、

 

「失礼します。」

 

くらい言えよ、この無礼者

 

個人になると急に謝罪しない人が多いのは何故なんだ!!

 

と感じました。

 

あと、

 

そんなにビクビクするでない!!

 

って感じの人も多くて、本当に両極端でなんか歪だなあって思いました。

 

生き辛いなあこんな社会では、、、

 

 

謝罪しなくていい場面もあるでしょって話。

↓              ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

 

 

 

   

 

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帰国後またやらかしました【アイコンタクト】

 

帰国した日に早速やらかしたんです!!

 

本当に長年、足を踏み入れていなかった日本9年以上ずっと見ていなかった地元の風景。

 

実は私その9年超の間一度もオーストラリアから日本に帰っていなかったんです。。

だからホントに久しぶりで、、

 

空港にあった旅行会社からハイヤーを手配してもらい、実家まで帰宅しました。

変わらない風景すぎて本当にビックリしました。。。

 

こんなにも変わらないなんて!!!!

 

それとは対極に、西オーストラリア州パースはここ数年の間にかなり街並みが変わりましたが、、

 

(話がずれてしまいました、、)

 

景色を見ながら、自宅に到着。

ハイヤーを降りた瞬間に、見た事がある人を見かけました。

少しだけは年をとってはいましたが、その方はあまり昔と変わっていないのですぐ分かりました。

 

そこで、反射的にその方と思いきり目を合わせてニッコリとしてしまったんです。

 

ほぼ、9年間オーストラリアで上手く生き抜いていくために身につけた習慣です。

 

ただ私の本当の性質は、めちゃくちゃ人見知りで初対面の人だと全くしゃべる事が出来ないような性格なんです。根は陰キャの中の陰キャです。でもこれでは流石にヤバすぎると思ったので後から、様々な経験で矯正したんです!心の持っていき方を変えただけというか、、

 

だからオーストラリアに渡る前なんかは、いやいやとんでんもない!

見ず知らずの他人に対してじっと目を見つめてのアイコンタクトなんて、できない人間でした。単純に恥ずかしい感じがしますから、、

 

でも人って環境で変わるのですね、、というか自分が属している場所で上手く生き抜くためには変わらざるおえない事もある。

 

私はオーストラリアでアイコンタクトマニアにまで変貌したのです。

 

そして約9年間、ずっと続けてきた習慣。

 

気づいたら、

反射的にアイビームを飛ばしてしまいましたー!!

 

その後の、そのオバハンの反応といったら、、、

 

まるで、変質者や犯罪者を見るような入り混じった感情を含んだような冷たい視線をし私から思いっきり離れたんです。。。。

 

そこで、初めて

 

うわーーーーーっ!

やらかした!!

 

と気づきました。

 

だけど会ったことある、近所の人なのにそんなに変な目をして見なくてもってちょっと悲しかったです。。。

 

もう私のアイビィーーーームを誰も受け取ってくれないのでしょうか、、

 

単純に寂しい気持ちが湧きあがってしまいます

 

アイコンタクトの素晴らしさや効能

についてを身を持って知ってしまったのですから、、

 

日本に帰って来て周りと違う行動をすると変人や変質者のように見てくる人達が本当に多くてそれを身を持って今感じています。

 

いちいち刺さりますよーーー!!!

 

私は昔から人と少し違っていて馴染めなくて、友達もなかなかできなくてって事が続いていたから、ああーこういう事だったんだなってまた改めて理解しました。

 

アイコンタクト自体、人に迷惑をかける程に悪い事でもないし犯罪でもないのに。

それに良い側面さえある、ポジティブな習慣なのに。

 

殆ど犯罪者をみるような、、そんな感じに見える反応をされて

 

あー異質なものは受け入れがたい人が多いんだなあ

 

ってちょっと寂しくなりました。

 

あと変わりゆく者を受け入れる事に抵抗を持つ人達、、

 

でもよく考えたら、陰キャの行動様式に戻せば生きやすくなるのかな...苦笑

 

私はいったいどうなってしまうのでしょうかぁーーーー

完全に変態もしくは変人として君臨しています!!!!

 

 

さあ、皆さんアイコンタクトしてみませんか

私のアイビーム受け取りませんか??

アイコンタクトの良さを味わいませんか!!!

 

(やけくそw)

 

 

アイコンタクトがめちゃくちゃ重要な国も世界には存在します!!

そんな話。

↓                      ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

 こんな話も。。

↓             ↓

discovery-australia.hatenablog.com

 

 

   

 

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何故そんなに謝罪するんですか!?

 

オーストラリアから帰国してしばらく経ちましたが、とっても違和感を感じている事があります。

 

それは

 

日本人は何故そんなに謝罪するんですか!?

 

ということ。

 

やけに

 

”すみません”

 

という表現を使う人が多くてそれが気になってしょうがなくなりました。

 

そういう私も思い起こすと、海外に長期出る前までは全く気にせずこの”すみません”という表現を多用していたような気もする。今となっては覚えていないけれど、、

 

だけど一つ言えることは、多言語を習得する過程で言葉に対する接し方が変わり昔よりも言葉の意味について考える事が増えるようになったのは事実。それは日本語も英語も共に、、

 

 

なんで、そんなに”すみません”と言うんだろうか?

 

 

サービスを提供する側がこういうこと言ったら、なんだか悪いサービスをしてるから申し訳ない気持ちを感じて謝っているのかと思ってしまう。それか、恥ずべきサービスをしていると自覚しているからこんな言葉が出るのだろうかとか変な事を考えてしまう。

 

今ある最善の物を良いサービスで提供しているのだったら、何故 ”すみません”と言う必要があるのだろうか??

最悪、もしサービスに汚点があったとしてもそれが料金に見合っている物、もしくはちゃんと商品に対しての説明責任を果たしているのであればなにも悪い事をしている訳ではなく恥ずべき行為とか悪いと思う必要なんてある訳ないんだから、、

 

もしこれらの事(しっかりとした説明や料金に見合ったサービス)を提供していないと分かれば、私のようなタイプの人間は、

 

あぁー、”すみません” と言って言い訳にしているんだな...

 

と感じてしまう。

 

 

家には良く電話が掛かってくる。

 

私のブログを前から購読してくれてる人は知っているかもしれないが、私は電話が嫌いだ。言い換えると人の身になって考えず、何度も何度もこちらが応対するまで掛けて来る人が嫌いだからで、そのタイプの人は人の時間の貴重さを考える事もしない自己中のキモイ人間だからだ。そういう人間に限って頭が悪いから要件がまとまらず、記録として文字で残さないと後々厄介で困るから電話は出ないと決めている。

 

私自身、本当に話したい人がいれば「何時頃に電話してもいい?予定大丈夫?」とか必ず聞くし、人の時間を邪魔しないためにそうすべきと思っている。それは自分が長年の経験で嫌な思いをした事が多々あったからで、他人に同じ思いをさせたくないという気持ちだからだ。。

 

だから滅多な事では電話に出ないのだが、最近電話越しからこのお決まりのフレーズ”すみません”が聞こえてきた。(私は目が悪い分、何故か地獄耳なんです。。。苦笑)

 

受話器越しから、聞こえる

 

”お忙しい中、何度もお掛けしてしまってすみません。”

 

と言う表現。

 

それを聞いて感じたのは、悪いと分かっているのに何故何度も掛けるのかという事。。

 

”すみません”と言う言葉さえ言いさえすれば、それが逃げ道となりこういうキモい行動でも許されるのだろうか、、相手の気持ちも考えずに、、

 

それって、ただの言い訳で言ってますよね?

 

と感じざるを得ない。

 

ここで使うのは、相手が不快に思うかもしれないという想像力を働かせたら

 

”ごめんなさい”

 

と言うべきだろうと思う。

 

だって、もし”すみません”という表現を使うのであればその言葉には反省しているという意味を込めているはずなんだから、もうそんなにしつこく人の時間を邪魔するほどに何度も電話するという迷惑行為を次回から改めるはずだからだ。

 

でも、この言葉を使う人は大抵また掛けて来る。

 

”すみません”と言う表現や”申し訳ない”と言う表現を使って、、

 

要は丁寧な言葉を取りあえず言ってごまかしてるだけで、全然礼儀正しい行動はしていなく寧ろ図々しい事をやってのけている。

 

”すみません”を言えば全て許される便利表現と思って使っているんだったら別に丁寧語でも何でもない訳。実態が伴っていないんだから、、

 

こういう事を少しだけぼやいていたら、せっかく丁寧な言葉を使っている人の事をそういう風に言うなんて行儀が良くないといわれてしまったが、私から言わせたらここまで言葉の意味を考えて言ってますか??と言う話で、正直日本語の使い方が間違ってますよね??と思ってしまう。

 

それに礼儀がなってないのはどっちですか?と言う話で、だって言葉について色々思う事は自由だし、考えるのを否定するのはおかしい。寧ろ間違って日本語使っている人が気になっただけなのに、、

 

私がこういう風に思うのは、本当に汚くて悪い人間で常に嘘を吐いている人はやけに丁寧で綺麗な言葉しか使わない人間が多い事を経験から学んだことに起因しているのかもしれない。。

 

そもそも、何故ここまで

 

”すみません”と言う言葉が気になったのかという事を考えると、

 

取り敢えず、思考停止状態でロボットみたいにこの言葉を気軽に使い自分の行動に逃げを作っている人が多いように思ったからだと思う。

 

みんなが良く使うフレーズをみんなと同じように使えば、周りに良い印象を与えるという無意識下の行動。日本人が作りがちな同調する空気が言葉にまで現れている。それが間違った言葉遣いでも、、なんだか変だと思う事は悪い事なのだろうか?怒られる筋合いはないと思う。

 

みんながみんな同じタイミングで同じことを言う。

 

心も込めずに、決められたから言ってるみたいに、、

 

私にとっては、こんなに気持ち悪い事はないんだ!

 

それにどうして、ポジティブな気持ちを素直に伝える人が少ないんだろう。

 

どうしてそれを恥ずかしいと思う必要があったり含みを持たせる必要があるんだろうか?

 

人生一度きりだし、遠回しに伝えてその時しっかり伝わらない可能性を考えたら素直な感謝の気持ちや誰かを褒めたい気持ちは直ぐに言うべきじゃないんだろうか?

 

自分が言われて嬉しくなる言葉、

 

”ありがとう” という感謝の気持ちを表す表現。

”すごいね”というほめる表現。

”素晴らしい”という称賛する言葉。

 

はそこに嘘がないならば別に惜しみなく使うべきではないのだろうか?

ポジティブな言葉を発すると自分も明るくなるし、相手だって気分が良くなるどれだけ使ったって悪い事なんて見当たらないんだから!

 

オーストラリアでは

 

”Thank you!”

”Amazing!”

”Fantastic!”

 

などのポジティブな表現をみんなが積極的に使う環境が多くて、私の心自体も頻繁に明るい気分になっていた。

 

お互いにもっと素直に、”すみません”の替りに”ありがとう”と言えないんだろうか?

 

それにいい物は素直にいい、悪い物は素直に悪いと感情を出す事は悪い事なのだろうか?

 

含みを持たせた表現ばかり使う事は、伝える事の弊害にならないだろうか?

 

 

本当にそんなに謝罪する必要があるのか、真意はそこにあるのか

ちょっと考えてみる事は大事だと思った。

 

 

   

 

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自然体でもいいよね!【厚化粧】

 

私はオーストラリアに行くまで、厚化粧だったと思います。

と言っても日本の中ではそれほどでもなかったのだろうけど、、

 

日本では身だしなみとしてお化粧するべきという教えを受けて来ました。

 

だからちょっとした時でも、素顔を出す事が恥ずかしい気がしてというかそれと同時に勇気がもてていなかったような気がします。

 

例えば、宅配便をとりに行くときや近くまでお散歩する時、親戚や知り合いが家に遊びに来る時、そんな時はいつも身構えて前もって顔づくりに努めて来ました。

 

正にメイクアップ!!

 

だけれど、オーストラリアに行ってからその意識がだいぶ変わったんです。

 

最初は長年の習慣で素顔を見せる事に抵抗があったから、学校に行くときもしっかりメークをしていました。

 

目元を強調するために、アイライナーやマスカラまでしっかりつけ通っていたんです。寧ろそうしないと恥ずかしいような気がして、、ただの長年の習慣です。

 

だけど色んな国から来た生徒から尋ねられた事は、

 

「今日しっかりメイクしてるけど、どこか行くの?デートするの?」

 

とかそういう質問。

 

中には、

 

「いつもバッチリお化粧してるけど、すごいねえ。化粧品も化学薬品だから、あんまり毎日しっかりやってると肌に悪いよ。たまには肌休ませた方がいいよ!」

 

とか教えてくれる人までいました。

 

そんな事、考えた事もありませんでした!!

 

それで周りを見渡して、

 

あれれ?

 

と思いました。

 

そんなにみんなばっちりメイクしてないんです。

自然体の人が本当に多い!

 

アジア系、ヨーロッパ系、南米系すべて

ナチュラルメイク!!!

 

クラスにはたまたま日本人は私だけだったんですが、多分私が一番ばっちりメイクだったように思います。

 

私は彼ら、彼女らにしてみたら

The 厚化粧 !!

の存在だったのでしょう。。

 

でもそれに気づいた後も、長年の私の中の意識が邪魔をします。

 

一か所でもお化粧する箇所を忘れる、例えば頬っぺたにチークを入れ忘れたとかでも恥ずかしい気分がするんです....

 

それで自然体にする勇気がもてないんです。

何故か分からないけれど、、

 

でもその恥ずかしい感情ってどこから来るのだろうという気持ちになっていました。

 

そうこう考えていながらも例の厚化粧を続けていた私。

 

そんなある日、きっかけとなる出来事が起きました。

 

私のブログを前から読んでいてくれた方は知っているかもしれませんが、私は留学して1年もしないうちに重症のインフルエンザに倒れる事になりました。その後、リハビリをしなければいけない程の後遺症に長期悩まされました。

 

当然、そんなにバッチリ厚化粧(!?)なんて出来ません。

私はオーストラリアの中では、外国人の立場だからそんなに長く休んでいる訳にはいきません。だから無理しないように少しずつ学校に復帰し始めました。

 

最初は、メイクするのもキツかったので日焼け止めとちょっとしたファンデーションだけで出掛けるしかなくなりました。アイメイクやハイライトなんてとんでもない、できなかったです。

 

正直、見られるのが恥ずかしくて内心はビクビクしていました。

表情に出さなかっただけで、、

 

でも初日から、直ぐに気づきました。

 

気にしていたのは、自分だけだったんだな!って

 

別に自然体状態でも、厚化粧でも人の反応なんて変わらなかった。

 

寧ろ病気してた間、何も出来なかったから英語のTVばかり見ていたのと病院やリハビリスタッフの方々と会話していたおかげで英語力が向上していたのと捨て身の姿勢になっていたのとでコミュニケーション力上がって周りと会話が進んだくらい。。

 

結局は自分が気にしていただけで、外側の見た目なんて自分が思うほど他人は気にしていないって事が本当に良く分かったんです。

 

それから私は変わりました。

 

厚化粧から自然体メイクに!!!

 

こういう道筋を歩んだので、他人のメイクについて興味を持つことになりました。

人は自分に重ね合わせると他人に興味を持ちやすいいい例かもしれません。

 

見回してみると、確かにオージー達がおめかしメイクをするのはパーティーやデート、特別な場所に顔を出す時に限られている人が多い事が理解できました。

 

彼女らは普段は自然体で楽に生きているのです。

 

この自然体を心がけるようになってから、本当に私は変わる事が出来ました。

 

いざという時にしっかりメイクすると身が引き締まります。

でも安らぎたい時や飾りたくない時は、緩く必要最低限の自然なメイクをする

 

服装もそう、普段は着飾る必要なんてない。

自分が楽で安らげればいいんです。

 

大事なのは、清潔にして見た目に不快感を与えない事。

それさえ気を付けていれば誰に迷惑をかける訳でもないし、誰も気にしないのです。

自分が気にしていたほどには...

 

これで気持ちの面でも、ONとOFFの切り替えができる事が分かりました。

オージーが気持ちの切り替えが上手なのも普段の外面の作り方も多少は影響しているのかなという気もしています。

 

いつもピシッとしていては、緊張感がいつも消えない。

 

見た目を考える事でこんな大事な事に気づいたんです。

今まで気づいていなかったけど、、

 

それに見た目ばかりに気を取られる事、それ自体が経済の奴隷になるきっかけにさえなる。

 

自分の内面を磨けば対して外っ面なんて気にする必要はない。

 

新作の化粧品、流行りの服、今注目されている美容法。

イケている顔、イケてる髪型。

 

それは本当にあなた自身が欲している物なんですか??

何かに作り上げられている物なのではないですか??

 

 

「そもそもの”イケている”の基準点って何ですか??」

と聞かれてしっかりと簡潔に説明して回答を出せる人間はいるのでしょうか?

 

 

みんな違ってみんな良い。自然体が一番なんですよ。本当は、、

でもそんなこと言ったら、消費させる事出来ませんよね。

だから言わないんですよね。きっと、、

 

探求し始めては永遠にキリがない。

 

本当はたいして他人なんてそんなところ真剣に見ていないのに、騙されていませんかと言いたいです。

 

現代はステマだって溢れてるんだから!!

 

私はオーストラリアで長く生活をするようになってから、本当にメイクも自然体に服装も自然体に昔よりは変わりました。

 

日本に帰って来たけれど、”自然体でもいいよね!”という気持ちは変えようと思っていません。自分がそれが楽だから。

 

おめかしやお化粧する前も本当に自分の欲望がしっかりメイクやキチンと服を求めているか判断してからしか挑もうと思いません!!

 

ON、OFFは大事なんだ。

自由にさせろ!!!

何かの奴隷になんて、

なるもんじゃない!!!

 

 

   

 

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