百貨店マイヤーで危機一髪
まだこちらに来て間もない頃、買い物をするためにシティーに出かけヒヤッとした経験がある。
その日はセールが開催中だという事を知ったので、足りない日用品を揃えるために昼過ぎからシティーに出かけた。
まだ良くシティーの中にどんなお店があるか理解していなかったので散策しながら、通りを歩いていた。
そうこうしているうちに、時間はあっという間に午後3時過ぎになっていた。
その後2つ百貨店がある事に気づく、一つはデビッド・ジョーンズ、もう一つはマイヤーという名前の百貨店だ。
まずはデビッド・ジョーンズの中を一通り見て、マイヤーに移る。
私は良く集中していたり、夢中になっていると時間を忘れる癖がある。
この時も、安い商品を見つけて選んでいたためにすっかりと時間を忘れていた。
何時だったか覚えていないが、急に人の気配が無くなったような気がした。
我に返ると、周囲に人っ子一人いない!!!
そういえばさっき閉店すると言っていたような気がする。。。
と気づいた時は、時すでに遅し!!
なんとあちらこちらの電気が消えて薄暗くなって来た。。。
この時、本当に焦ったのは物音さえないような静寂に包まれてきた事!!
こういう時日本だと、閉店時間になった後に人がいないか確認するために人が巡回したりするし、何度か声を掛けて来る人がいる。
まさか店員までいなくなるという事は、殆どあるまい、、
だけどそこには、ただ静寂の時間が流れていた。。。
私の時間も一瞬止まった、、
だけど暗くなってきている時点で冷静に考えるとヤバいので、出口の所まで走っていった。
するとなんとシャッターがほとんど閉まりかけている状況で、正に閉店時間後の百貨店に閉じ込められるところだった。
誰かモニターで確認していたのかもしれないが、危機一髪のところでシャッターが下がるのが止まった。
もしあと一歩遅かったら、百貨店の中で一晩過ごすことになっていただろう。
何故、周りの客達が急いで店から出て行ったのか分かった気がした。
日本だと、残り数分でも駆け込んでデパートの店内に入る人もいるが、もしオーストラリアでそんな事をしたら下手したら一晩その中で泊まらなければいけなくなる可能性もあるっていう事だ。
私は洋画を見るのも好きだが、よく百貨店やお店で買ったワインのボトルを開けてしまって飲みすぎた挙句、泥酔してしまい眠っていたらそのまま朝になってしまったというお決まりのシーンがある。
私はオーストラリアに留学して住む前はこういうシーンを見ても、映画を面白くするための大袈裟な演出に使われたカットなんだろな。とか冷めた目で見る自分がいたが、本当に起こりうる事だと知って驚いた。
この経験から、いつもお店に入る前は閉店時間を気にして閉まる少し前には必ず出口の方まで行く習慣がついた。
この閉店時間をきっちりと守るという所は、オーストラリアの良いところでもあり逆に悪いところでもある。
従業員の立場になれば、時間が来れば直ぐお店から出る事ができるのだから、残業するリスクを減らすことができる。
しかし客の立場から考えれば、閉店時間を常に気にして行動しそれを忘れるとそのまま取り残されてお店の中に閉じ込められてしまうリスクがあるという事になる。
その一方で日本であれば、お客様が残っていればお店から出るのを待ち確認して閉めるという方法をとるために、その結果何時にお店から出れるか分からない。だから、何時に仕事を終わる事ができるか分からないというわけだ。
この閉店時間前後の対応を見ても分かるようにオーストラリアは完全に経営において、日本と比べてお客様を重視するのではなく従業員を重視するという事が分かる。
どっちが正解何だろうか?
自分が客だったら、日本のようなシステム。
自分が社員だったら、オーストラリアのようなシステム。
が好ましいけど、必ず2つのシステムが混在する事はあり得ない!
考えてみると、オーストラリア型の経営は株主優先型だから利益追求をとっていると言える。
利益のみ考えれば、閉店間際の時間の数少ない客のために光熱費や人件費などのコストを掛ける事はかなりコストパフォーマンスが悪いと分かるだろう。
それに加えて、世間における企業イメージを上げるためには従業員がその職場で働いていてライフワークバランスを保つことができる事が重視されている。
従業員一人一人が普段の働き方に満足していれば、その職場の事を周囲に良いイメージとして話すのでその人たち自体が良い広告塔になり、結果企業のイメージがアップして売り上げも伸びると考える事も出来る。
実際、企業倫理が確立されていない会社はバッシングが起こり売り上げまで響いてくるというのは良くある話だから、雇用状況の改善は良いことしかないと思う。
オーストラリア人は中にはワーカホリックの人もいるが、日本と比べればライフワークバランスを重視する人間が多いように見受けられる。
個人の生き方を尊重する人間が割と多いので、自分達が多少お店の中で不便でも閉まる時間を確認して早めに切り上げる事を個々で行っている。
もしかしたらいるのかもしれないが、私は今までに誰も文句を言っている人を見たことが無い。みんな急いで、店を出るだけだ。
閉店前になると、
「そろそろ閉まるから、出なくちゃ」とか言う声があちこちでする。
私も百貨店マイヤーで危機一髪で閉じ込められそうになった経験をしてから、時間を気にして周囲の様子にも気を配るようになった。
要は他人が何とかしてくれると思わずに、自分が悪い目にあわないように自分の頭で考えて行動するようになったという事だ。
ルールは教えてもらえると思わずに自分で調べる。
この場合は、閉店時間などがそうだ。
何でも与えられたり、居心地が良すぎるとついついそれに甘えてしまい自分で考えなくなってしまうという事はないだろうか?
ルールばかり最初から説明されてそれに沿っているだけで、本当の危機回避能力が身に付くだろうか?
日本の便利すぎる環境や、レールを敷かれルールばかりを叩き込まれる環境は自分で考える能力が育まれていくんだろうか?
そんな事を少し考えてしまった。
日本型の経営は、客を常に沢山集客できる状態が続けばコストパフォーマンス的に合うのかもしれないが現実問題としては、労働環境的に悪いとしか言いようがないから、結果論としては経済的に考えて不利な状態と言えるのではないのかと思う。
だからこそ、人の消費意欲を掻き立てるような心理的印象操作を常に加えているメディア等が存在し、お金を手にしこの商品を持っている人がステイタスというような刷り込みを行うんだと思う。そうしなければ、コストに対する売上高が上がらないからだ。
そうやって資本主義による、大量消費社会が生まれているのではないのだろうか?
それにしっかりと巻き込まれると、お金が沢山ある事が幸せの定義になってしまう人がいる。物を持つことがステイタスとなれば、それを買うために稼がなくてはいけない。それを手に入れればまた他のものが欲しくなるの繰り返しだ。
要は物を持つことが幸せになったりするとそれを追いかけていたらきりがないという事だ。
だからお金がいくらあっても足りないし、いつも満足しなくなってしまい幸せを感じる事が難しくなってしまう。
経済を考える事は、幸せについて考える事でもあると思う。
金による地位を求めだすと切りがなくなって、手に入らなくなるものが増える例。
日本の経済は時として寂しい世の中を作り出しているような気もしてしまう。
百貨店のマネージメントを一つとっても日本とオーストラリアは全く違うし、オーストラリアは不便だとも思うけれど、
全体的に考えた場合に、一人一人が自分で考えて危機管理をもつ事ができるし雇用条件が改善される会社が増える、物欲ばかりを推進し重視する世の中から脱却できて、もっと進んだことを言ってしまえば、お金や物欲以外でどんな事が幸せか考える人がもっと増えるのではないか?
そんな風に考えると、オーストラリアの労働者に優しい働き方を見ていると良いシステムだと思ってしまう。
百貨店で閉じ込められそうになった時は、
サービス悪すぎて何だこれ―!
と怒りさえ感じていた未熟者の私がいましたが、、こういった不便さを繰り返すうちに自分で考える思考回路が非常に身に付いたと思うので、オーストラリアに住んだ事は満更でもなかったなと思えています。
それに何度も危機一髪な目にあうとそれを回避する事が楽しく感じられるようにもなってきます。
オーストラリアありがとう!と今は毎日思っています。
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